おやまとでこのぼう
3 年に一度、鳥居の両脇に据えられる高さ 8m のおやま(胡瓜山)と、その上で宮年寄が演じる操り人形「でこのぼう」。例祭の最後を飾る神事と、踊り子・お守りのいわれをご紹介します。
写真はイメージですおやま(胡瓜山)
- 篠山市指定 有形文化財「造り山」昭和53年(1978)
現在は「胡瓜山」とも呼ばれます。桃山時代の天正 17 年(1589)頃、社殿の復興を記念して創設されたとされます。
おやまを取り仕切るのは、世襲制による 14 人の社役人です。かつては毎年出していましたが、昭和 37 年には 7 年に一度となり、現在は 3 年に一度です。
氏子が真竹と荒縄を持ち寄って東西に 2 基を組み立て、鳥居の傍に運んで本殿に正対させて据えます。骨組みができると上・中・下三段の麻製の幕を張り、神を迎えます。おやまは高さ 8m になり、頂上にダマ松と呼ぶ新芽のついた松を挿して、天から神が降臨する場所とします。京都祇園の山鉾の原型といわれています。
本祭りの最後の行事として、踊り子の太鼓の音に迎えられて神前に寄せられ、その場で「でこのぼう」の人形劇が奉納されます。
明治初期までは、14 歳以下の少年 12 人が赤い熊毛をかぶって五色の紙で飾り付け、肩衣、手おい、股引きの姿で腰に太鼓、尻に狸の皮をつけ、鳥居から社殿まで横に飛びながら進む蛙飛び・猿芸をする「清め」の行事で先導したといいます。
おやまの呼び名
おやまは時代によって呼び名が変わってきました。
| 呼び名 | 時期 |
|---|---|
| 引山 | 天正年中 豊臣の頃(明治 3 年の古書による) |
| 飾山 | 天正年中 豊臣の頃(明治 3 年の古書による) |
| 造り山 | 明治・大正・昭和の頃 |
| おやま | 昭和の頃〜現在 |
| 胡瓜山 | 昭和後半頃〜現在 |
でこのぼう
- 兵庫県指定 重要無形民俗文化財「でこのぼう」平成7年(1995)
写真はイメージです12 体あり、かつては「でっこのぼう」と呼んでいました。手作りの素朴なもので、衣装も村人の寄進が多く、古くから伝わる操り人形の原型といわれます。
人形は文楽の祖形と見られ、頭と胴串を一体化した 60cm と腕木 30cm 程度の素朴なもので、中世の色彩を残しています。檜材の木偶人形で、赤面 3 体、白面 9 体があります。
十二体の祭礼操り人形として、昭和 38 年 4 月 19 日に兵庫県指定重要文化財に指定されました。
明治 21 年から 30 年の神社の古書には、多田満仲公の寄附と記されています。
でこのぼうを取り扱うのは、各村にある、世襲制で引き継がれた宮年寄です。宮年寄は祭礼の 2 日前、神酒で溶いた墨と朱で人形を彩色し、藤と鯛の絵を描きます。
小道具には「御殿の屋根」「瀬田の唐橋」「猪」「筍」「百足」「鯰」「ハチの巣と叩き棒」「斧」「鋸」「弓矢」「竜神(天文四年作銘)」があります。
人形繰り奉納
- 国選択 無形民俗文化財「おやま行事」平成17年2月21日(2005)
写真はイメージですこの神事は天正 17 年(1589)の頃に始まったとされます。神殿前に寄せられた 2 基のおやまの上で宮年寄により演じられ、「でこのぼう」の繰り劇が二題奉納されます。謡に合わせて演じる能と、「つけたり」と呼ぶ狂言ものです。
古い能楽の形態をもち、人形が呪術的神事の遺品として珍しい祭祀形態です。謡曲で人形を操る様式は、日本で他に無いものです。台本は無く、口承で伝えられたようです。
この神事を含む一連の行事は、国選択の無形民俗文化財(おやま行事)です。冊子の見出しには「おやまの神事:兵庫県指定重要無形民俗文化財」ともあり、その指定書の日付は平成 7 年 3 月 28 日です。
- 演目(8 曲)
- 愛宕山・大木の林・高砂・道成寺・田原藤太・春日竜神・弓八幡・氷室
- つけたり(8 種)
- 猪の筍堀り・二十四孝・竹の子・蛇ゆき・百姓水論・なまず・蜂の巣・座頭
- 現在の演目
- 「愛宕山」と「田原藤太」、つけたりが「猪の筍堀り」と「蜂の巣」
踊り子
写真はイメージです13cm ほどの板に棕櫚の毛と、五色(赤・黄・紫・青・白)の紙テープで作った紙束をつけた「しゃぐま(赤熊)」を頭に付け、麻布の肩衣と袴を着て、腰に小太鼓を抱きます。おおむね氏子内の幼稚園の年齢の子どもが務めます。
おたびでは太鼓を鳴らしながら道中を浄め、おやまの出る年には「カミサンムカエ」の太鼓でおやまを迎えます。
おひねりと蘇民将来
写真はイメージです波々伯部神社特有のお守りで、「おひねり」または「笹守」といいます。白、青、黄色のこよりに「蘇民将来子孫」「疽癘禍災防除」と印判が押され、疫病・災難除けとしています。例祭には氏子がこれを身に着けて、山車や神輿の行事に参加します。
波々伯部神社では、かつて拝殿のことを「蘇民将来舞堂」と呼んでいました。
蘇民将来のはなし
素戔嗚尊が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うた素戔嗚尊に、この辺り一番の大金持ちの巨旦は、意地悪く「うちは貧しいから泊められないよ」と嘘をついて断りました。
しかたなく歩いて行くと蘇民将来の家に着きました。貧しいながらも心優しい蘇民は家の中に招き、粟のご飯をたいてもてなしました。
蘇民将来の真心を喜ばれた素戔嗚尊は、疫病流行の際に「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は疫病から免れさせると約束されました。その後、蘇民将来の家族は病気もなく円満で、この辺りで一番の長者となり、巨旦は病気になって家は没落しました。
この故事にちなみ、京都の祇園祭では「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。波々伯部神社も同じです。