境内案内
社殿と参道、境内の堂社、木と山、石造物と史跡の順に、境内の見どころをご案内します。
社殿と参道
本殿
写真はイメージです現在の本殿は明治 27 年(1894)に再建されました。屋根の千木は昭和 41 年(1966)に取り付けられたものです。
本殿や拝殿の各所には、中井権次一統の彫刻が 106 箇所に見られます。
社務所
写真はイメージです社務所は明和 2 年(1765)の建立で、祇園寺であった当時の住職 圓封院随順上人が建立した本堂・庫裡が、そのまま使用されています。
奥居間の欄間には中井権次一統 第 6 代 橘正貞の彫り物があり、襖と板戸の絵は計 36 面が篠山市指定文化財です。
参道(馬場)
写真はイメージです波々伯部神社の参道は 143m(80 間)の距離があります。
参道には、欅 6 本・杉 36 本・檜 22 本と、松・栂・紅葉・銀杏・柿などが各 1 本で、計 69 本の樹木が植わっており、神秘的な雰囲気がただよっています。
『多紀郷土史考』によると、江戸時代の初めごろ、岩見重太郎が敵の赤星源太左衛門をこの祇園の馬場で打ち取り、宮ノ前のお大師さん(月見山)の所に丁重に埋葬したという伝説があります。実際に、現在もその場所に赤星塚という小さな祠があります。
手水舎
写真はイメージです水盤の前面には「徳行院代」「祇園社御神前」「奉寄止水盤」「元禄五年壬申九月吉日」「施主 隔夜幽延」の刻銘があります。
水盤の上で水の出口となっている龍は、氏子有志により昭和 33 年に寄贈されました。
境内の堂社
鐘楼
写真はイメージですここにあった釣鐘は元禄 14 年(1701)に奉納されたもので、釣鐘の内部には「祇園牛頭天皇」「丹州多紀郡波々伯部 祇園寺」などの銘が記されていました。
釣鐘は昭和 17 年に財団法人 戦時物資活用協会へ供出されました。重さは八十一貫五百匁(約 305kg)でした。
絵馬所
写真はイメージです建てられた年は分かっていません。明治 20 年頃の絵図ではこの場所が池で、絵馬所は今より前方にあり、現在のものとは少し形が違います。古い絵馬には安政 6 年(1859)己未と記されています。明治 12 年(1879)の村社八坂神社台帳にも、絵馬所の面積などの記載があります。
源頼光が片手で持つ弓を、農民が二人で引っ張ってもびくともしないという、源頼光のすごさを称える絵馬(安政六年と記されたもの)と、明治 14 年まで青銅の鳥居に懸けられていた「祇園社」と書かれた額が、どちらも絵馬所に懸かっています。
護摩堂(不動明王堂)
写真はイメージです宝永 5 年(1708)に護摩の修業道場として再建されたもので、現存の建物の中で最古の建物です。
明治初年の神仏分離令と明治 3 年の太政官達により、仏像 17 体(五大明王・12 神将)を畑市村の西光寺に預けていましたが、昭和 41 年に畑市村より返還され、現在は護摩堂に安置しています。
五大明王などは享保 12 年(1727)頃から享保 16 年(1731)にかけて寄進されました。12 神将は、平安時代の宮中の 12 天が基本です。
五大明王には、金剛夜叉明王と軍荼利明王に「波部六兵衛次茂」、不動明王に「波部六左衛門次義」、大威徳明王に「宮ノ前村観音講」、降三世明王に「畑井村中」の刻印があります。
裏山の土蔵
写真はイメージです建てられた年は分かっていません。この土蔵には、おたびの猿田彦・獅子頭・社銘旗・薙刀・法螺貝・箱櫃などと、本殿の三方や飾りつけ用具などが保管されています。
八坂神社の台帳には登録されていないので、明治 15 年以降、波々伯部神社になってから建てられたものと推定されています(明治 28 年の古社事項取調簿には土蔵の記載があります)。
小宮さん
写真はイメージです石垣の上に小宮が並んでいます。1 社の天満神社(祭神 菅原道真・昭和 10 年に社殿奉納)、2 社合祀の秋葉社と松尾社、5 社合祀の山神社・愛宕社・淡島社・春日社・筒井社、2 社合祀の蛭子社と稲荷社です。
秋葉社・松尾社、5 社合祀の各社、蛭子社・稲荷社は、いずれも創設年が分かっていません。
5 社合祀のうち山神社・愛宕社・淡島社と筒井社、2 社合祀のうち稲荷社は、明治 43 年 10 月に合祀されました。
木と山
御神木
写真はイメージです本殿裏の山にある幹回り 4.3m×20m の檜を、神木として崇めています。このヒノキは本殿を覆うように広がり、御祭神を守るかのようです。本殿裏の山には、ほかにもヒノキの大径木が数十本あり、山の神聖さを護っています。
境内には 7.5m のスギのほか、モミ・アスナロ・ムクロジュ・ヒノキ・サルスベリの大木、波々伯部の語源のハハカノ木とするウワミズザクラも、拝殿東側や裏山にあります。鳥居の辺りにはケヤキの大木やイチョウなどが繁っています。
檜林
写真はイメージです波々伯部神社の本殿裏山には、多くの太く立派な檜が育っています。
鳥居前の枯れた大けや木
写真はイメージです周囲長は 5.8m で、昭和 40 年代まで巨木の生木でした。この木の中の空洞は子供の遊び場でもありました。もし生木であれば、兵庫県下で 10 番目にランクされる太さです。
神社の山
写真はイメージです波々伯部神社の山は、弥十郎ヶ岳の中腹にあります(通称 鶴沢の宮山)。弥十郎ヶ岳の神社の所有地は約 10 町歩(約 10 万㎡)で、昭和 5 年 12 月 13 日に日置より無償譲渡を受け、昭和 16 年 3 月 8 日に登記されています。
神社の山の中には、お寺であった頃のお坊さんの修業場所の跡があり、小さな石垣の境界もあります(現状は竹藪)。
昭和 8 年 9 月 7 日には、当時の氏子総代全員の立会いの下で、弥十郎の部分の絵図が作成されています。
石造物と史跡
寄附石
写真はイメージです古い寄附石は明治の頃からあり、大正時代のものと、昭和 11 年の拝殿再建の寄附者の名を刻んだものがあります。平成 4 年までは参道にありましたが、倒れるおそれがあるため現在地に移設しました。
本殿裏石垣
写真はイメージです波々伯部家の家蔵文書の記録の写しによると、この石垣は文化年間(江戸時代・1804〜1818)に積まれたもので、尾張国の亀蔵・亀甲門蔵が石工であったと記されています。
金比羅社跡
写真はイメージです波々伯部神社の明治 21 年の文書によると、神輿殿に向かって左のところには、かつて金刀比羅社(別名 金比羅さん。大物主神=大国主命、あるいは崇徳天皇)がありました。
祠掌兼訓導記念碑
写真はイメージです当時の筆子が建立した記念碑です。明治時代の絵図には、手水舎の左手にある建物が手習所(明治 16 年頃)であったとの記述があります。現在は記念碑のみが残っています。
波々伯部家の裏面墓標
写真はイメージです神社の裏庭(裏の土蔵の下あたり)にある墓標です。誰の名前が刻んであるかは分かりませんが、明智勢に墓が壊されないように、わざと裏面に向け、滝のように見せかけてあります。
波々伯部神社の墓地
写真はイメージです国道から宮ノ前の月見山(旧お大師さん跡や赤星塚がある)に向かって、西の端にある祇園寺・波々伯部神社の墓地です。1760 年以前から存在します。
中央にある一際大きい石碑は、明和 2 年の頃に祇園寺の社務所を建立したと言われる、当時の住職 圓封院随順上人の石碑です。この住職は、天台宗の比叡山延暦寺で千日回峰の修行をし、その後、大阿闍梨となりました。

