知る

波々伯部の名と一族

「波々伯部」という名の由来と読み方、この地に根付いた一族の歩みをご紹介します。

拝殿右のウワミズザクラの花(イメージ写真)写真はイメージです
拝殿右のウワミズザクラの花
名の由来

名の由来(波波迦の木)

古書には、この地を神田之庄かんだのしょうの「報鹿部邑ほうかべむら」とする記述があります。朝廷の重要な行事の占いに用いる火木を調達する役目に関わる部族が住んでいました。

古代(奈良時代以前)から、朝廷は政治を占いに頼っていました。亀の甲羅や鹿の肩甲骨を焼き、そのひび割れで占う祭祀を司ったのが鈴鹿家です。その燃料に使われたのが、古い名を「波波迦ははかの木」というウワミズザクラの木の皮でした。

ウワミズザクラは里山に点在する桜で、神社の拝殿の右側や裏山にもあります。4 月上旬から中旬にかけて、普通の桜とは趣の違う花を咲かせます。

この「波波迦」の木を献上したのが波波迦族で、その名が「波波伯部」に変わったとされています。

文字の変遷

文字の変遷(報鹿部 → 母伯部 → 波々伯部)

  1. 報鹿部村729 年(天平)〜 876 年(貞観)の頃。丹波の国の神田之庄と呼ばれた頃の奉納などの控え文書に見える
  2. 母伯部村1426 年以前。始まりは分かっていない
  3. 波々伯部村1427 年(応永34年)以降

応永34年(1427)、波多野経基が朝路山に砦を築き、報鹿部村の満楽寺を祈願所として帰依し、守護神の十二神将を奉納しました。この帰依をもって村の名は母伯部村から波々伯部村に改められ、源為光の一族も苗字を波々伯部に改めました。

畑井に伝わる家の古書には、伯伯部ほおかべ城や母上という文字もあります。

読み方

読み方 4 通り

「波々伯部(波波伯部)」には次の 4 通りの読み方があります。神社の名は波々伯部ほうかべと読みます。

ほうかべ
昭和 22 年頃以降、現在の宗教法人の登録名。個人の名字としても
ははかべ
古書、明治・大正・昭和の頃の読み。個人の名字としても
ほほかべ
古書、明治・大正・昭和の頃の読み。個人の名字としても
ほおかべ
個人の名字
一族

波々伯部一族から波部姓へ

暦応りゃくおう2年(1339)、源為光の一族は、朝路山(高城山)の東の麓(八上新村)に隣り合う神田之庄の報鹿部邑を所有しました。報鹿部邑は古くから京都の八坂祇園神社の荘園で、西から上宿・井ノ上・北嶋・畑井・畑市・宮ノ前・小中・辻の八ヶ村からなり、菩提寺として龍王山満楽寺(今の波々伯部神社の場所)をもっていました。

高城山(元の朝路山)の落城の後、天正15年(1587)に波々伯部六兵衛光廣は波部六兵衛と改名しました。波部家は八上新村で酒造業を営んで財をなし、大庄屋となりました。

波々伯部を略した「波部はべ」という姓が作られ、今全国にある波部姓はすべて波々伯部神社に由来するとされています。黒豆のブランド品種「波部黒はべぐろ」は、波部家が宮中に献上したことから名付けられました。

波部家 6 代目の当主、波部六兵衛次賢つぐかたは「石門心学」の研究と教育に力を注ぎました。次賢の後も光貞みつさだ、光孚みつざねと続き、波部家は 3 代にわたって地域の教育に活力を与えました。光孚の代の 1796 年には、石門心学の道場「中立舎」が開かれました。

八上城と淀山城

名字

波々伯部家系列の名字

波々伯部神社に来られる、波々伯部家系列の名字などです(冊子が発行された平成 28 年現在)。

  • 波々伯部ほうかべ・ははかべ・ほほかべ・ほおかべ
  • 波波伯部ははかべ
  • 波部はべ
  • 波壁はかべ福知山に在住
  • 南みなみ西紀に在住
  • 伯伯部ほおかべ過去に篠山在住
  • 伯伯上ほおがみ現在篠山に在住
  • 母上ははかみ
  • 母伯部・報鹿部ははかべ・ほうかべ古書に記載された文字