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由緒・歴史

白鳳の御堂から「丹波の祇園さん」と呼ばれる今日まで。冊子の歴史概要と年表から、波々伯部神社の歩みをたどります。

由緒

歴史のあらまし

飛鳥時代

白鳳9年(680)、大和朝廷の取り次ぎにより本地仏の薬師如来像を安置し、龍王山満楽寺としました。

奈良時代

天平5年(733)、勅命により播磨国の広峯山から祇園牛頭天王の御神霊を奉じて都へ帰る吉備公ら勅使の一行が、満楽寺に宿泊しました。その際、一行に夢のお告げがあり、牛頭天王の御分霊を祀って神殿を造営しました。

当地に住む波々伯部族の守護神、すなわち氏神となり、これが波々伯部神社の始まりとされています。

平安時代

承平5年(935)には、多田満仲公から「舞鶴根引之松紋」の幕が寄進されました。

承徳2年(1098)、京都東山八坂の祇園御霊社の荘園となり、波々伯部八ヶ村の里人は波々伯部保として祇園御霊社の領民となりました。

安土桃山時代

天正7年(1579)、明智光秀の丹波攻めで社殿は焼失し、記録文書も灰となりました。波々伯部一族は離散し、里人と波々伯部の地名が残りました。

天正17年(1589)、豊臣秀勝の命で復興・再建されました。おやまの造営、例祭の操り人形でこのぼう、踊り子、宮年寄、社役人などの制度は、この頃に生まれたと思われます。

江戸時代

貞享3年(1686)、行政府の御定書により天台宗龍王山祇園寺と改称しました。元文5年(1740)には御神体を再興しました(京都の仏師 塩釜伊織の作)。

明治時代

明治5年(1872)、明治政府が「異国の仏神」を禁じたことから、祭神を和名の素戔嗚尊すさのおのみこととし、社殿の存続が許されて社名を八坂神社としました。

明治14年(1881)、波々伯部神社と改称しました。

大正から現代

大正12年(1923)に社格が県社となりました。終戦後に社格は廃止され、宗教法人 波々伯部神社として現在に至ります。

年表

年表

冊子の巻末にある年表「波々伯部祇園社縁起録あらまし」の全項目です。

古代

  1. 豪族の報鹿部氏が治める自治集落「報鹿部村」があった。

飛鳥時代

  1. 680 年白鳳9年

    大和朝廷の取り次ぎにより、本地仏の薬師如来を当地に迎えて御堂を建て、龍王山満楽寺と称した。

奈良時代

  1. 733 年天平5年

    勅命により吉備公ら勅使の一行が、播磨国飾磨郡の広峯山から祇園牛頭天王の御神霊を奉じて都へ帰る途中、満楽寺の薬師堂で休息した折に神助があり、当地に神殿を造営して御分霊を祀った。以後、報鹿部一族の守護神、すなわち当地の氏神の始めとした。

平安時代

  1. 935 年承平5年

    源氏の祖廟とされる多田満仲公(川西の多田神社の御祭神)が願文を奉って宿願を果たし、御社紋「舞鶴根引之松紋」を寄進した。以後この紋を波々伯部氏の家紋とし、波々伯部保の旗印とした。本社牛頭天王御再建。

  2. 1098 年承徳2年

    堀河天皇の即位に際し、京都東山の祇園御霊社(現在の八坂神社)の御領地(荘園)として寄進され、以後その御分霊を祀ることとなった。

室町時代

  1. 1427 年応永34年

    日光菩薩・月光菩薩の懸仏が奉納される(願主 宗光)。母伯部村を略して波々伯部村に改名した(波々伯部家の家蔵記録による)。

  2. 1490 年延徳2年

    青銅製の鳥居が奉納される(鳥居に記録がある)。

  3. 1517 年永正14年

    薬師如来尊の懸仏と古神輿一社が奉納される(妙光比丘尼:波々伯部氏の菩提尼)。

安土・桃山時代

  1. 1579 年天正7年

    明智光秀の丹波攻めの兵火で社屋・古神輿・記録文書などが焼けて灰となった。戦乱のあおりで、波々伯部氏一族のうち生き延びた武士は一部を除いて諸国に離散した。

  2. 1589 年天正17年

    豊臣秀勝が代官の浅野和泉守に祇園社の再建を命じる。明確ではないが、この頃に祇園社の完成を祝って、おやまの造営、祭礼の操り人形「でこのぼう」、踊り子行事、宮年寄の制度などができたのではないかと言われている。

江戸時代

  1. 1641 年寛永18年

    口の鳥居(青銅の鳥居)を大修理。

  2. 1676 年延宝4年

    大歳神社を再建(明治28年の古社事項取り調べ書には、寛永元年にも大歳神社の記録がある)。

  3. 1686 年貞享3年

    奉行所の御定書により、号を天台宗龍王山祇園寺と改めた。

  4. 1692 年元禄5年

    手水舎が奉納される(徳行院代)。

  5. 1701 年元禄14年

    梵鐘一口(釣鐘)が奉納される。鐘銘は「祇園牛頭天王」、願主は摂津国有馬郡畑之庄の光悦。

  6. 1708 年宝永5年

    護摩堂を再建立。

  7. 1727 年享保12年

    不動明王堂・不動明王・四天王・十二神将の寄進が始まる。神輿を再興(宝暦改記録帳に記載がある)。

  8. 1740 年元文5年

    祇園三社の御神体を再興。仏師は京都の塩釜伊織。

  9. 1760 年頃宝暦年間

    当社の古い社史「宝暦改記録帳」の編纂が成る(小中の法印、任観上人の筆)。

  10. 1765 年明和2年

    住職の圓封院随順上人が祇園寺の本堂と庫裡を建立(現在の社務所)。

  11. 1784 年天明4年

    波々伯部八ヶ村の庄屋の連印のもとに「祇園社諸事申談覚書」を作成(氏子・宮年寄・社役人ほかの役付けなど)。

  12. 1837 年天保8年

    宮ノ前の山蔵の修理記録として、ダンジリ(壇數)の再建の記録がある。

  13. 1850 年嘉永3年

    青銅の鳥居を大修理(再建)。

  14. 1852 年嘉永5年

    青銅製の狛犬が奉納される。

明治時代

  1. 1868 年明治元年

    明治政府が神仏判然令を出し、「異国伝来の仏神」への信仰は厳しい弾圧を受けた。当社の特殊神事の発祥を記した貴重な記録文書類は、焼却されたり、隠して持ち回る間に散逸したりして行方不明となった。

  2. 1872 年明治5年

    御祭神を和神の速素盞嗚尊とし、社号も祇園社から八坂神社と改めて、御社殿の存続を許された。

  3. 1881 年明治14年

    八坂神社から波々伯部神社に改称。青銅の鳥居の神社名の掲額は二品 久邇宮朝彦親王。

  4. 1888 年明治21年

    万燈会が氏子・崇敬者の自主団体として発足。

  5. 1894 年明治27年

    御神殿を新築して御遷座。神殿・神具の担当として社役人の制度ができる。

  6. 1910 年明治43年

    例祭日を変更。陰暦6月14日を陽暦8月5日に改めた。

大正時代

  1. 1920 年大正9年

    郷社に認定される(内務大臣 床次竹二郎)。

  2. 1923 年大正12年

    県社に認定される(内務大臣 水野錬太郎)。

  3. 1925 年大正14年

    神輿3基を新調。

昭和時代

  1. 1942 年昭和17年

    梵鐘一口を供出。

  2. 1944 年昭和19年

    青銅の狛犬(2基)を供出。

  3. 1945 年昭和20年

    青銅の鳥居が美術品に認定される(文部省)。

  4. 1978 年昭和53年

    造り山が篠山市指定有形文化財となる。

  5. 1980 年昭和55年

    「丹波山陰道そい文化財群」(兵庫県知事)。

  6. 1980 年昭和55年

    祭礼の操り人形「でこのぼう」の継承により、氏子中が兵庫県知事から「ともしびの賞」を受ける。

  7. 1984 年昭和59年

    薬師三尊懸仏が篠山市指定有形文化財となる。

  8. 1988 年昭和63年

    万燈会の発足百周年を迎える。

平成時代

  1. 1989 年平成元年

    例祭日を変更し、8月の第一土日とした。

  2. 1990 年平成2年

    青銅の鳥居が篠山市指定有形文化財となる。

  3. 1994 年平成6年

    障壁画36面が篠山市指定有形文化財となる。

  4. 1995 年平成7年

    でこのぼうが兵庫県指定重要無形民俗文化財となる。七日祇園では、火焚きに加え、氏子総代の案により人形供養も始まる。

  5. 2005 年平成17年

    おやま行事が国選択の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」となる。

  6. 2012 年平成24年

    篠山市の歴史美術館で、10月から12月にかけて波々伯部神社の祭礼と社宝の展覧会が開かれた。

城と一族

八上城と淀山城

淀山城は中世に築かれた山城で、別名を波々伯部城といいます。当時の祇園社を祈祷所とした波々伯部氏が居城した山城の跡で、篠山市辻にあり、西へ約 4 キロの八上城を守る支城の一つだったと見られています。

波々伯部氏は、家譜によると源義家の末裔で、源房光が篠山に来たと言われています。のちに次郎左衛門為光が足利尊氏に仕え、軍功により建武4年(1337)に伯耆国稲光保の地頭職を与えられました。明徳の乱では光豊・光基らが活躍しました。為光は「淀山城」、嵐四郎光尚は「南山城」、兵庫助光興は「東山城」に居城し、一族は繁栄して屈指の土豪に成長しました。

八上城の波多野氏が強大になると、波々伯部氏はその重臣となりました。明智光秀の攻撃から逃れた波々伯部氏の一部は、落城の頃に帰農して酒屋を開きました。

神社には、祇園社の祭礼の際の祈祷願文を記した波多野秀治公の書状が残っています。波々伯部家の古書には、応永34年(1427)に高城山の波多野家から 12 社の権現と神殿が奉納されたと記されていますが、この神殿も 12 社権現も、天正7年の明智の丹波攻めで焼失しました。

同じ頃に懸仏として奉納された日光・月光は、奉納者が波々伯部一族で、室町時代のものとして薬師如来尊懸仏とともに今も神社に保管されています。こうしたことから、当時の祇園社は波多野氏や淀山城の波々伯部氏の祈願所だったと思われます。

波々伯部一族から波部姓へ

神社に伝わる

言い伝え

  1. 御祭神の名は素戔嗚尊ですが、元の御祭神の名は牛頭天王(素戔嗚尊と同じ神)であったため、神社の中で牛のすき焼きや焼肉などの食事や宴会をするのは、年間を通して良くないとされています。
  2. 神輿殿の 2 階には、祇園寺であった頃の石仏が一部だけ残っていました。
  3. 今の本殿の裏の斜面は、寺であった頃は墓地でした。明智によって処刑された八上城の武士たちの首は高城山の下の首塚に、胴は波々伯部神社の本殿の裏に葬られたと言い伝えられています。